リベラルまで包摂は近づいている

 

果てしない技術開発、自然破壊、眠らない大都会。グローバル資本増殖運動=地表破壊侵攻がこの期に及んでなんの反省も無く極限まですすんでいく超緊急事態に、建築運動課題考察になればと思い抽象化した主要情勢について発言します。それは“包摂”という概念で説明されます。ボクはオーナー・ユーザーとの建築創作歴から得た社会学。“大きな地球を壊さない小さな自分のOLA革命”を喜寿最終盤の今年6月に著作出版しました。下記二作品は同名です。「君たちはどう生きるか」。反骨の文学者・吉野源三郎の児童文学と宮崎駿監督の映画が、「軌道を逸し平衡を失った世界」。何万年もかけて育まれてきた命のイメージを、映画では久石譲さんの音楽は想起させる。(9:10朝日新聞・編集委員吉田純子)生活行為における自分度がボクの世代が子供期から観てきた、トコトン減少していく姿こそ革命の的として捉え、まともにする自分度を取り戻す実行がOLA革命であると論じました。裏に返せば、人類の生産行為=地球破壊行為をこの50年間に1400倍になるという認識で咎める、表裏の完全合致です。ボクたち当事者が、衣食住諸生活局面で消費者に成り下がることを喜こび望んで受け入れる状態を「資本の包摂」と言い、生活文化に定着してきました。包摂の主体は資本主義の社会構造で客体は、資本家⇒政治家(国家⇒地方)⇒マスコミ⇒専門家⇒大衆の順に深化し、順位別に黒焦げてきます。順位の頭・資本化・政治家はもう死し、炭化しています。政経の実態に期待できない情況は大衆の認識になってきています。まだまだ息のある順位の地方自治が牽引する“ミュニシパリズム”が世界各地に勃発し、まだ白地の“コモン”と“若者”が動き出し、世直しの期待がかかるのは当然です。例えば建築界には、「キレイ」「オシャレ」「アツイ」はその状態を表す言葉に蔓延する資本主義社会の悪しき文化が、人々に消費行動を促がします。労働強化と所得格差拡大の結果にしかならない「活性化」という何かイイような言葉に絆される専門家は自分も包摂されてきたと自覚されますでしょプか。「少子化対策」もよく使われる「いい言葉」ですが“包摂用語”です。「私」を生きよ宮崎監督のの伝言(上同新聞)。ボクは思います。「私」を生きる個々の集積結果が人口であって国家の“社会対策など”でコントロールするものではないのです。国家は小手先を止めて「私」が生きていく安定基盤をまともにして下さい。将来の地球が生存しつづけ、戦争のない、自分力で生きていける、私を生きるように。地表の生命体として愉しければ、おのずと生命の再生産は自然社会になじんでいくことになるでしょう。

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