ロシアのウクライナ侵略の愚行が一週間続いたころ、新聞一面に、珍しい視点の記事が二つも重なった。マスコミ論調も、ぼくたち国民感覚も一斉に政治権力的ポイント・その大問題と動向、戦争被害者の悲惨な実態に集中するなかに、戦争の千峰に置かれる加害戦士側の心象リアリズムが、「天声人語」「折々の言葉」に一枚撮影できるように掲載されている。
洞穴に潜んだ主人公の小説と「大統領閣下戦争したくありません・・・」脱走を決意し大統領に求める戦士の楽曲だ。
ボクが幼いころ、戦争加害を実行し帰還し精神が破壊されてしまっている近所の隠遁者姿を、見てしまっている。イヤで強烈な記憶に残っているのは、顔色・目・頭髪・装束が醸しだすぼくの幽霊像そのものだったからだ。おじさんも戦死しているボクの「反戦意識」は、この幽霊状態にされた地域のヒトだった。「人を殺すこと」と「人に殺されること」の天秤関係に明確な回答が生まれたのだ。殺されるか殺すか。ボクにとっては考え悩み続けた命題ではない。
すぐに結論が出たのだ。
おじさんは殺されたから一瞬の苦しみだったが、近くの幽霊は殺したから、それも無意味にやったから、ずっと苦しみ続いて精神が破壊されている。この世に生を受けて人間性を破壊されて生き続けることほど辛いことはないはずである。最大の不幸だ。殺されることはその次に位置する。おばあちゃんが苦しんでいたのを、今では思い出せる光景があるし、兄の父親が弟が戦艦の閉ざされた鉄の一室で苦しんで死んだ涙の空想描写に強烈な悲しい記憶が残る。幼児にそれ以上のインパクトを与えたのは近所の«幽霊»の怖い記憶である。
中立を求める隣人に、もっと共感しあい中立を求め協調しようとする政治家は出てこないのか?
殺されることを避けるようなポーズを取って、殺され殺す双方を避けられない構造を生み出している双方の権力者たち。「血を流さなければならないのなら、あなたの血をどうぞ」と世界にこの曲が流れている。
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