老母の薬生活(2)

自分度

その年10月帰省した折、非常に元気だった母が、わずか二ヵ月後の大晦日に帰省した折、ぐったりとして寝床についていたのだ。びっくりして父に聞いてみると、この間の経緯は次になる。

11月になって、腰痛でY病院入院。その後、K病院に入院したのが一週間。二足歩行を獲得した人間は誰でも腰痛になるといわれている。入院すると、それが大げさに「病気」となり、痛みの緩和を口実に筋弛緩剤が投与される。12月16日夜、それが原因で、意識朦朧状態でY病院に救急されたという。入院は1週間。23日には退院したということだった。腰痛は狭窄症と診断されている。大量投薬を「合理化」する病名だ。普通の生活をしていれば誰にでも判るのだろう。ドンドン増える薬に不安を感じた近くに住む父のいとこの八千代さんは、「薬をやめるよう」と父に助言したと言う。

ここからは、ボクの目の前で起こった出来事である。

大晦日に、確かに親父は薬をやめようとしていた。帰省した私も、よく判らないまま同調し、正月三が日、病院へは内緒で薬をやめてみたのである。遅れて帰省したボクの家族四人と、東京から帰省した兄貴たちと、母親は自宅でカラオケを楽しむまでに精神状態が回復する。ツヤのある声で、笑顔で歌う。3日前の「死人のような顔面」とは、全く正反対にまで、健やかになっているではないか。・・・・愉しい正月を送ることができたのだ。

そんな正月を経験し安心して帰阪したボクは、その後一~二週間ピッチに帰省して母親を見守ることになる。1月13日、Y病院O先生の往診がある。ノイローゼの薬が届く。母親は「良かった」ので続けると言う。どうみてもノイローゼではない。Y病院リハビリ往診もあり、たいへん元気だった。なので、17日病院長にお願いしてノイローゼの薬を止める。元気になった状態を確認し安心して帰阪すると、また薬攻勢が始まってしまう。

3月10日(木)は母の生まれ故郷日名に、ボクの運転する車で出かけ、母は仲良しだったいとこの岡田さんに会って楽しそうに談笑する。父と私は薬抜きの効果を確信し、薬は降圧剤6だけにすることで一致し実行に入る。母と二人だけで同居する父と私との間で薬対策が完全一致した。正月からのこの70日間、シーソーのように母の健康状態が上下に動いた。上への動力が薬抜き。下に引っ張るモノは薬であり病院であった。この間にあったように、ボクが薬をやめさせ帰阪すると、1週間もあれば、薬が増えている状況は繰り返していた。付け込んでくる。薬からの防御は、父に強固な薬に対する正しい認識がないと難しい。病院は「訪問看護」と称し、多種薬を飲んでいるかどうかだけをチェックしにやってくる。母の病状経過の中で学習を重ね、母と二人だけで同居する父と、ボクとの間で一致する薬対策は、病院の権威と組織力に何回も破壊される。・・・・・・・・・同じ内容の繰り返しが、丸5年間続くのであった。

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